横浜市立大学脳神経外科学教室 開講50周年に寄せて

田中 良英(H5年卒)

皆様,横浜市大脳神経外科教室50周年おめでとうございます.記念式典では懐かしい先生方とお会いしての歓談を楽しみにしておりましたが,残念ながら所用で出席がかなわなかったので,自分の教室への入局やその後のエピソードをお伝えさせていただきます.

自分は生まれも育ちも横浜であったこともあり,医師を志望して地元の横浜市大に入学し,平成5年に卒業,その後同大学病院で初期研修を実施しました.その頃は,大多数の卒業生は大学病院で初期研修を受けており,当時の横浜市大も卒業生60名のうち,他地域で研修する者を除き約50名が横浜市大で研修しました.研修医全体では,卒業生とほぼ同数が他大学から補充され,一学年約100名が勤務しておりましたが,きちんとした教育プログラムもなく,研修医同士の連帯感も生まれず,ただ自分が組み立てた希望診療科をローテートするという状況でした.大学での研修は大学特有の疾患は経験しますが,いわゆるcommon diseaseは稀なため,当直のバイトなどで経験を積むとともに,低い収入を補填しておりました.自分は学生の頃から脳神経外科には興味がありましたが,他に消化器外科,心臓外科,麻酔科などにも興味があったのでそちらを優先し,脳外科は2年目の10月からの3ヶ月間のローテートを予定しました.研修では腫瘍を中心に疾患を経験しましたが,自分の想像した脳神経外科疾患や脳神経外科の生活と乖離していると感じたため,3ヶ月間の研修中に横浜南共済病院,横須賀共済病院,横浜労災病院を1週間ずつ見学させて頂きました.最終的に麻酔科への進路をお断りして脳神経外科の進路を決定したのは2月でしたが,麻酔科の奥村教授も「外科系に行くなら同志です.」と言って送り出していただき,当時の主任教授の山本勇夫先生をはじめ脳外科教室の先生方は熱く歓迎して下さいました.

当時の教室人事は,卒後6年目までをカリキュラム委員会,その後を人事委員会が決定していました.それぞれの委員会は卒後経過年数5-10年ごとに委員が選出され,カリキュラムでは教育的に相応しいと考えられる症例数や手術件数を満たす施設に限られローテーションが組まれていました.自分は大学(浦舟→福浦)1年間,国立横浜病院(現横浜医療センター)2年間,横浜日赤病院(現みなと赤十字病院)1年間をカリキュラムとしてローテーションしました.当時合格率50%程度の脳外科専門医を滞らずに取得できたのも,教育していただいた先輩方の恩恵と自覚し,感謝しております.

専門医取得後の勤務において,自分は卒後10年目から横須賀共済病院の二番手として勤務していましたが,3年半経過した時点で上司の突然の異動により急遽脳神経外科部長(教室から見ると施設長)を担うこととなりました.12月の突然の人事交代であり,さらに4人→3人へ減員となったことを受け,当時の院長からは,「君たちの教室は我々横須賀共済病院を軽視しているようだね!」とのお言葉を頂きました.また,事務部長からは脳外科の経営状況を示されながら「脳外科の売上は上位10位の診療科には入っていないね.もう少し上げてもらえないとハサミ一つ買ってあげられないよ.」と指導されました.横須賀共済病院は教室関連施設の中でもかなり症例数の多い施設だっただけに,病院からの印象はそのように思われていることに衝撃を受けました.また,それまで科の収入状況や院内での立ち位置などを考えたこともありませんでしたが,今後は同僚に多くの経験を積ませるとともに,増収により病院内での地位を向上し職場環境を改善すること,ひいては教室の評価に繋げることこそ部長の大きな責務で教室への貢献であると理解しました.先述したように部長就任時は自分と専門医取得前後の若手2名の3人体制であり,今までの運営を継続するだけでも頭を抱える状況であったため,夜な夜な一人悩みました.当時脳外科同様に人員不足に悩んでいた救急科との連携を依頼し,脳外科も救急科当直を担う代わりに,脳外科不在でも夜間の頭蓋内疾患をつつがなく対応し翌日まで管理してもらうようにしました.また院内病棟当直を新設し入院患者の死亡確認も担うようにしたため,当科はほぼ緊急手術が必要な入院や,処置が必要な入院患者の急変のみに集中し対応できるようになりました.麻酔科は,当科の技術の高さを認めてくれていたため,緊急手術も最優先で受けて頂き,業務が効率的に進むようになりました.現在では年報に報告しているように,県内でも有数の症例数を扱うまでに成長し,院内では運営面や経営面でも重要な位置づけを担っていると自負しております.現在は8名+ベトナム修練医1名の体制で診療に当たっていますが,そのうち教室からのローテーションは3名に過ぎません.教育的にも十分魅力的な施設であると自負しており,もっと多くの教室員に当院を経験してもらい,脳外科領域だけでなく,病院運営,地域医療連携など幅広く習得してもらえればうれしく思います.

部長になるまでは市大脳神経外科教室の一員として人事ローテーションをしていたにすぎませんでしたが,その後は病院の管理者と会話をする機会が増え,そして自分も管理者の一員を担うようになって,病院が横浜市大脳神経外科教室をどのように感じているのか,何を求めているのかを知ることが出来るとともに,他の診療科と比較するなどで教室を客観的に観察することが出来るようになりました.

かつての教室は良くも悪くも,教室員のみでなく同門とも多くの意見交換をし,言ってみれば民主的に運営されて来た印象があります.しかし一時,体制が一変し新医局?が発足しました.今までの教室員や関連施設の定義など,多くが変更になったと思われますが,医局会やその他ミーティングなどは新体制下に発足されているので,大学勤務している者しか知るすべが無くなりました.またその反動として,帰属意識が遠のいてしまった者もいるように思えます.自分としては,現教授と同門の知恵により,同じ歴史を繰り返さない組織が構築される事を期待します.

新専門医制度が発足し,神奈川県に在住し新しく脳神経外科専門医を目指すものとしては,どこかの大学教室に入る必要が生じました.つまり脳外科医ということは同じでも選択が限られているためにとりあえず教室に入る,見方を変えれば教室は多様性に富んだ人材の集団になったと考えられます.しかし全ての者が教室に執着したり教室愛を持ったりしているのではありませんし,また自分の将来を,教室の考える方向に希望するのではありません.横浜市大はもともと卒業生が少なかったため多くの他大学卒の研修医を受け入れたにも関わらず,派閥も生じずに協力し合って輪を広げてきた経緯があります.残念ながら教室員の中には,執拗に要請されたために教室を離れる決断をしたという話は少なからず耳にします.われわれは全員,理系日本最高峰の資格を有する優秀な人材です.原理的価値観や全体主義を捨てた,あらゆる人材を抱擁するような教室に(同門会も含めて)なってもらいたいと願います.

今はNPOが設立され,教室を支える組織が一つ増えたことは喜ばしいことです.今後NPO,教室,同門会の在り方でそれぞれの立ち位置が変わっていくのであろうかと予測されます.今後は自分にとってだけでなく皆様にとっても,帰属意識を持てる,かつ誇りに思える組織であるように,自分も一助になれればと思います.

乱筆ではありますが,益々の横浜市立大学脳神経外科教室の発展を祈念して,挨拶に代えさせていただきます.

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