横浜市大脳神経外科ロゴマークの作成と想い出
梅川 淳一(S62年卒)
私が横浜市大医学部を卒業したのは,昭和62年3月でした.平成元年12月には横浜市大で初の救命救急センターの開設に携わり,その後横浜赤十字病院(根岸),横須賀共済病院,国立横浜病院を経て,平成5年12月に現在の横浜市立大学福浦病院に転勤となりました.福浦は新設間もない頃で,窓からは青い海とシーパラダイスが一望出来て,老朽化していた国立横浜病院から来た私にとってはパラダイスに感じたことを覚えています.当時は山本勇夫教授を筆頭に,上田先生,所先生,菅野先生,佐藤博信先生,坂田先生,田中良英先生が居て,今思えばとても豪華なメンバーであり,色々な事をたくさん学びながら楽しい日々を過ごしていた(還暦を過ぎたこの頃は,すでに嫌なことは忘れているのだろうと思いますが)記憶が残っています.当時のトピックとしてはMSDOSのコンピュータから,Macの登場でITの世界が一変し,機械が苦手な私でも見よう見まねで使えるようになった事や,e-mailが使えるようになり海外留学中の先生たちから瞬時に便りが届くことに驚愕したり,それまでは薬品メーカーのプロパーさん(当時の呼称)にお願いしていた学会発表のためのスライドがMac上で自分の好きなように作成出来るようになった事,SONYからプレイステーションが発売され,バイオハザードというとてつもなく恐ろしいホラーゲームを当直の夜にビビりながら医局でやった想い出や,医者になって初めて海外の学会に参加し英語だけでの発表や会話を経験したり,アメリカへ短期留学に行かせて頂き日本の脳外科手術のスキルはアメリカに少しも劣ってはおらず,症例の集約システムが違うだけなのだということも感じた時代でした.平成6年頃だったと思いますが,山本教授から横浜市大脳神経外科のロゴマークを作ってはどうかという話があり,何故か私にその役が回ってきました.そこで私なりに,横浜らしいもので,あまり堅苦しくないものを目指し,灯台や港,中華街,湘南など色々と思い悩んだ末,福浦の医局の窓から見えるシーパラにヒントを得て,全脳室を斜め横から見た図を二匹のイルカに見立ててはどうかなと考え作図してみたところ,思いの外バランスが良く教授の了承も得られたため提出,決定となった?と思います.正直に言えばその決定過程や,どうやってオーソライズしたのかまでは記憶に無いのが実情なのですが,今もなお使っていただいていることや,今回の50周年記念ロゴにも素敵に使っていただいている事に驚きと感謝の気持ちでいっぱいです.このロゴを僕が死んだ後も脈々と引き継いでいっていただけるのではという期待と,これからの横浜市大脳神経外科の発展を願って私の思い出話を終わらせていただきます.