下垂体経鼻手術ことはじめ

持松 泰彦(S53年卒)

脳神経外科学教室が50周年,開設された年は医進課程2年目.横浜に出てきた目的である山登りに専念し,北→南アルプスから上越・南東北の山に通っていました.

自主ローテート研修の時代で,脳神経外科は2年目のみ,外科と麻酔科を終えてくるように言われました.一人当直で使い物になる経験を,ということだったようですが入局者が少なくその後変更になりました.3ヶ月研修でしたが,病棟に医師一人,ということも多くSAHの急患の血管撮影は一人でやるのが当然,など現在の過保護とも思える教育プログラムとはかけ離れた時代でした.

最初に南共済へ;同期入局2名,従来新入局はまず大学でしたが3人体制となった2病院へ派遣.横須賀共済の方が腫瘍が多いので林先生,という人事でした.桑名先生,藤野先生に脳神経外科の手解きを受け,途中で2番手となり,結局3年.テニスを始め,スキー部の部長で北海道合宿など.桑名先生が福島先生の下垂体経蝶形骨洞手術を見学して始めた手術の助手が,下垂体経鼻手術との長い付き合いの端緒です.3例目は術者,何と脊索腫で症例報告しました.

大学に戻って,藤津先生の血管障害グループで手術の助手や平滑筋培養の実験などを担当していたのですが,たまたま術者になったプロラクチノーマが術後正常化し,桑原教授から今後の仕事にするよう命じられてしまいました.研修で耳鼻咽喉科を3ヶ月廻ったので鼻粘膜の扱い方は良いのですが,その先は自分で学ぶしかなく,学会の特別講演やモーニングセミナー聴講,終了後演者の先生に直接質問など・・.信州大学にいらした杉田教授の「白馬脳神経外科セミナー」に1988年から参加,フランス脳神経外科学会ウインターミーティング(スキーリゾートで1週間)などの機会でエキスパートの先生方と合宿のような生活があり,福島孝徳先生や近藤明惠先生(MVDも教わりました),堀智勝先生,相田先生(北海道大),竹前先生(信州大)など,多くの師匠に恵まれました.杉田先生には教室員扱いで顕微鏡手術の勘所を厳しく指導していただき,深謝.最初は欧文手術書通り鼻腔の入口をスクエアに削り前鼻棘は切断する;欧米人用の鼻鏡はこうしないと日本人の鼻には入らないが,やはり顔貌に影響が出る.悩んでいた頃に札幌医科大学の佐藤教授が日本人用のスリムで先端に湾曲のない,蝶形骨洞まで挿入できる鼻鏡を開発され,早速自費で購入し(手術器具はなかなか買ってもらえない時代でした),数百例に愛用しました.

鞍上部進展は開頭,術後は放射線追加し内分泌は補充,の時代から,経鼻で正常下垂体温存へ,パラダイムシフトとも言える変動期でした.下垂体ワークショップが日本間脳下垂体腫瘍学会(会員番号13)へと飛躍する時期にシンポジスト,関連病院へ毎年50例以上の手術応援,と神奈川の手術法を変えてきたと自負しています.今後は内視鏡,ようやく安全確実に行える器具が揃ってきましたね.

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