夜明け前

増田 肇(S43年卒)

下の囲みは,昭和48年5月11日付の「横医新聞」の写しであり,怪文書ではない.定年退職する内科教授(故人)の寄稿文の一部である.

正しい医者になるのは楽なことではない.ある大学で,小さな部門の専門家がまだいないのに目をつけた者が,1年か2年他の所で習ってきて,その病院に戻って専門家と称し,やがてその部門の長になり,教授にならんとたくらんでいる由.噴飯に堪えない.これも又害毒を流す虫であり,教授会も強力な殺虫剤をかける必要があろう.充分の基礎的な学問の上に専門的智識が築かれるべきである.本学においては,正しい,よき医学教育の上に立って,国民のための正しい,よき医師を育てるべきであろう.

「横医新聞」昭和48年5月11日

昭和38年山口和郎先生(S28年 横浜医大卒)は,第2外科山岸教授(故人)の下で脳神経外科の診療を始めた.教授の命により,2年間東大清水外科に留学,脳神経外科の習練を受けた後と聞いている.

その頃の時代背景として,昭和35年の60年安保闘争後の学生の虚脱状態を描いた「されどわれらが日々―」が芥川賞を受賞し,一方では普及してきたTVで「ベン・ケーシー」がヒットした.Emergency roomのドアーが開き,ストレッチャーに載せられた患者が搬入されると同時に “Ben Casey !” と言うナレーションが入り番組が始まる.毎回,脳外科チーフレジデントのケーシー先生が患者を救うために活躍するのだ.

折しも昭和41年,ニューヨークMt Sinai Hospitalで脳外科チーフレジデントだった林宏先生(S34年 横浜市大卒,故人)が帰国,山口先生に合流したので脳神経外科は2人体制となり,又bipolar forcepsをもたらしたので,格段に手術がやり易くなった.

ところが,昭和41年3月卒業の全国の医学生は,インターン制度反対,医師国家試験ボイコットを宣言,大学立て籠りを敢行した.彼等は入学した時に60年安保闘争を経験しているので筋金入りだ.(インターンと云う英語の響きは良いが,日本の制度は,医師免許を持たぬ医学部卒業生が無給で市中病院の雑用を行い,当時 治療法も無かった血清肝炎になっても治療費は自己負担とう制度である.)昭和42年卒の者もこれに続いたので,日本国中の救急医療の現場が医師免許を持たない若い医学部卒業生に依存する状況が出現,厚生省も音を上げ,昭和42年夏前には『卒後修練制度を見直す』と言い出した.そして昭和43年春には『医師国家試験受験資格にインターン修了は不要』と法改正した.しかしその後も医局封建制打破,入局拒否,博士号ボイコット等を叫び,現場の混乱は続いた.

前年秋に医師免許を手にした私(S43卒)は,昭和44年春に脳神経外科の研修(3か月)を始めた.S42年卒の井深先生(後に精神科専攻,故人)からベッドを引き継いだが,研修の心得として,入院させたのが山口先生か,林先生か,を予め知っておくこと,テキストブックはTaverasのTextbook of Neuroradiology,の2つだった.当時CTやMRIなど無いので,病巣の局在診断は病歴,神経学的所見,頭蓋単純写,頸動脈直接穿刺による脳血管写,気脳写,脳波検査等に依るしかなかった.勿論X-P連続撮影装置など無いから脳血管写は鉛のプロテクターの下に隠したフィルムカセッテを電光石火入れ換えて静脈相を撮るのだ.それだけに,それらの検査所見の読みは奥が深く,診断学の面白さに引き込まれた.慶友病院神経内科の斉藤先生(慶応卒)と川崎市立病院脳外科の服部先生(慶応卒)が始めた症例検討会(後の神奈川神経談話会)にも参加させて貰い,知識を深めさせて戴いた.後に参加した国立横浜病院脳外科に藤津和彦先生(S44年 東大卒)が居て,『気脳写を繰り返し行う毎に視野狭窄が改善して行った症例』を提示されたことを思い出す.しかし,手術となると,脳動脈瘤の場合など助手には術野は全く見えず,突然開頭窓に血が溢れ,助手は必死にSuctionすると云う場面も多かった.大家の中にはくも膜下出血の急性期手術は禁忌と言う者も居た.

昭和45年の春に,同級の金一宇君(故人)と私が脳神経外科に定着し,秋にはアメリカから第2外科に戻った千葉康洋先生(S39年 市大卒)と久間祥多先生(S39年 市大卒)が脳外科に合流した.日本で2台目のツァイスの手術用顕微鏡が入り,故酒井先生(S30年 横浜医大卒)の努力でICUが開設され,故大川先生(S34年 市大卒)がリハ科を立ち上げると,患者の転帰も少しずつ改善し,外科系ローテーターや新規卒業生の中にも “将来脳神経外科を専攻したい” と表明する者もボチボチ出始めた.

その頃(昭和46年)突然横浜市の予算に横浜市大医学部脳神経外科講座設立予算が組まれている事が判明した.講座新設は本来教授会が発議する事なのに寝耳に水であった.しかし教授会に,これをはねつけ,予算を返上する見識はなく,昭和47年1月に渋々,山口先生の肩書きを第2外科講師から,教授空席の脳神経外科講師に異動した.翌2月には,病院直属の特別職診療医であった金一宇君と私は脳神経外科所属となり,同じく病院直属の医務吏員であった千葉先生,久間先生も3月には脳神経外科所属となったが,生来 宮仕えが性に合わない林先生は開業してしまった.

さて,いよいよ脳神経外科の教授選考となった.それまで市大の臨床教授選考は東大の医局内人事で決まると言っても過言でなかった.その結果弟子を育てる気も無い教授や,無気力な雰囲気の満ちた医局も出現した.実際 “肺カンジダ症” を “肺カジンダ症” と呼ぶ教授や,『咬筋の神経支配は顔面神経です』と云い学生が唖然としていた風景を目にした事があった.そんな訳で医学部改革の波は当然教授選考にも及び,教授選考は開かれた教授会内での選考委員会が公募する事になった.その様な中での冒頭の文である.

後日談である.後年山口先生が,私達当時のメンバーに吐露した.『僕はあの時,手術がお上手で人格者,温厚な桑原教授が選ばれて本当に良かったと思った.他大学の教授が来たら当然辞めなければならなかったから』.冒頭の文を書いた教授は何の影に脅えていたのだろうか?

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