脳神経外科講座と私の50年

久間 祥多(S39年卒)

横浜市大脳神経外科講座が,発足より50周年を迎え,スタッフが,はじめ12名であったが,現在は,同門会員が200名を超え,大きく発展した.私は,講座発足時より,関連病院医長,教員等のいろいろな立場で講座に関与してきたので,講座の歩みと対比しつつ,脳神経外科医としての私の歩みを4期間に分けて振り返ってみたい.

第1期.神奈川リハ病院時代.1973年に,講座発足前に活動していた脳神経外科医局が,神奈川リハ病院を関連病院とし,私が,医長に指名された.同じ年の後半に,桑原教授が着任して講座が発足し,この人事が引きつがれた.

病院は,整形外科とリハビリテーション科が中心で,障害医療を意図して作られた.東洋一の設備を持つといわれた.予算は潤沢であった.私の要望で,一般的な脳神経外科の機材の購入のほか,機能的脳神経外科の設備を整えた.診療は,県西部の関連病院のご支援をいただいた.パーキンソン病の不随意運動の視床凝固術は,千葉大学の植村先生にご指導をいただいた

第2期.大学時代.桑原教授の下で,講師,助教授を拝命した.それまでの大学での実績がなかったので,教授の業務を補佐することになった.当時,医局では,腫瘍グループ,血管グループ,小児グループがあって,それぞれ独立して,臨床および基礎研究に従事していた.私は,腫瘍グループに属することになった.主たるテーマは,悪性脳腫瘍の術後に,大学および関連病院共通のプロトコールの治療を行うことであった.

第3期.がんセンター時代.主任として,自分の裁量で診療ができるのは大きな喜びであった.定位脳手術の影響があり,悪性脳腫瘍の局所治療を進めた.BRW型定位脳手術装置を用いて,カテーテルを平行に留置して,そこに脳外よりイリジウム小線源を配置する治療(定位脳照射)は,横浜市大病院と組んで行った.脳転移に対しては,ガンマナイフが普及する前のリニアックを用いた定位照射で,久間式定位照射装置を製作して治療した.脳表の腫瘍に対しては,ハリ麻酔を併用したawake craniotomyを行った.この手術法は日本脳神経外科女医の会の,ランチョンセミナーで講演する機会があり,楽しい思い出である.

第4期.定年後は,関連施設での診療はないが,前半は,七沢病院院長となり,脳神経外科講座との間で,人事交流をおこなった.後半は,同門会長として同門会の運営に関与してきた.

講座は50周年以降も永遠だが,私の50年は一段落することになった.講座が永遠に繁栄することを祈念する.

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