開講50周年を迎えて
小池 右(H1年卒)
講座開講50周年おめでとうございます.
僕はいわゆるはみ出し者の部類かと思いますが,教室で修練させていただいたことは現在の活動の大きな糧となっており大変感謝しておりますのでここに一筆したためさせていただきます.
僕は1989年琉球大学卒で東京の河北総合病院で初期臨床研修後,1991年6月に入局しました.当時教室を率いておられた桑原初代教授が入局同期6人の為にSCANDIAで歓迎会を開いていただいたことは懐かしい思い出です.その後山本第2代教授を始め多くの諸先輩方に1999年半ばまで薫陶を受けました.
しかし専門医となって3年ほどの後,突如(僕としては脳神経外科医としてある程度の目途がついたら是非取り組んでみたかった分野なので決して突如ではないのですが),航空宇宙医学へと舵を切りました.異分野であるにもかかわらず,当時快く送り出していただいた山本教授には今でも感謝の気持ちで一杯です.
その後JAXAやNASAで航空宇宙医師として勤務し,もうこのまま脳神経外科へは戻らない可能性もありましたが2003年スペースシャトル空中分解事故で有人宇宙飛行は2年間凍結され,宇宙飛行士の健康管理の仕事もなくなりました.その間宇宙放射線防護の研究などを細々と行っていましたが,この分野の危うさを強く認識し,「健康な飛行士が敵対的環境に適応できるよう医学的にサポートする」よりも臨床医としての本来業務である「病や外傷を患った人たちに対する医学的サポート」に戻る決意をしました.
しばらくは月曜日から木曜日まではJAXA筑波宇宙センターでの航空宇宙医師の仕事をしつつ,以前から取り組みたいと思っていた機能神経外科領域の手術およびデバイス植込術後の刺激調整管理を学ぶため,JAXA研修日の金曜日や休日の土曜日を利用して福岡の貝塚病院へ毎週出向き5年間勤務しました.
そして2009年にJAXAを退職し,宇宙センター近くの茨城県牛久市に開業し現在に至っています.2016年にはスペイン語全国通訳案内士の資格を取得し時々スペイン語圏の旅行者に観光案内をしています.昨年からは牛久市医師会会長に選出され,市内医療機関のまとめ役および県医師会との調整役をしています.いずれにせよ今の自分を形作ってくれたのは医師として駆け出しのころにお世話になった横浜市大脳神経外科なのだとの思いは変わりません.益々の発展を祈念いたします.