思い出の写真たち

細田 浩道(S41年卒)

茅ヶ崎徳洲会病院ガンマナイフセンター

国内でも東大病院に設置された1号機に次いで3号機が茅ヶ崎導入稼働し始めた.Dr. 石渡祐介がスエーデンストックホルム発生地で大学病院に留学してknow howを習得して持ち帰った功績は大きい.横文字でStereotactic radiosurgeryを苦肉な訳語「定位的放射線照射療法」と日本人に分り易いように考え出したのである.当時横浜市大脳外医局でガンマナイフ治療1件を手術1例と換算してくれたお陰で20をこえる関連派遣病院の中で年間手術件数断然トップに踊り出た.1件γ-knife照射治療後の昼時にこの統計的数字を祝い感謝のパーティささやかなお祝いをした.当時茅ヶ崎は手術症例が多く横浜市大医局でも有名な勉強嫌いのDr. 田中正顕やDr. 井手口浩之もローテーターとして同席して居た.


東西対抗コングレス野球大会で勝利・監督のカップを会長千葉大Prof 山浦から授与されるの図  

東軍監督をやって7 inningのゲームに無事終了,手前味噌になるので日頃守っている投手は厚かましいので,遠慮して東北大,新潟大の若いドクターにそれはまかせることにして,先発メンバーでは三塁手,トップバッターであった.対抗チームは九大脳外ロゴが入っているユニフォームで,監督は今は亡きProf福井仁士であった.勝ったお陰で後の懇親会で余興のカラオケ一曲を歌わずに済んだのである.


サンパウロ宿泊ホテルで夕食後のミーティング

昼食に何を食したか披露することがあった.同じ飛行機内のグループでDr.桑名と小生はふつうに出された洋食を各々食したが,年齢が上のProf.桑原とDr.小田は連日の肉料理に食傷気味でお二人で街中まで車で日本食「鯛めし」を召し上がったことが判明した.Dr. 桑名と小生は年寄りは仕方がないねと感じたことである.今やその年齢をこえることになっている.


空港で3人

小生の親友Neurologist Dr. Alan YudellをGood Samaritan Hospitalに訪ねるべく空港で3人揃っている.Dr. 石渡,藤津,細田の順(左から)

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