ちょっといい医局

村田 英俊(H7年卒)

1995年(H7年 金沢大卒)に卒業した村田英俊でございます.脳神経外科講座の開講50周年,心よりお祝い申し上げます.現在の時勢において,価値観の多様性が増しており,医局における考え方も変遷を遂げております.私自身は,25年にわたり医局員または教室員(卒局後)として尽力してまいりました.この機を利用し,私の経験を交えながら教室の展望についてお話しできればと願っております.

「燈台下暗し」

私は市大医局員として,関連病院でのローテーションは限られたものでした.具体的には平塚共済病院と西新井病院の2つだけでした.これは,入局と同時に大学院に進学し,専門医資格を取得するまでの期間に施設ローテーションが行われなかったこと,そして2006年に獨協医大から市大に復帰して以降,医局の再編があったためです.関連病院での研修では,平塚共済病院では篠永正道先生(脊髄)と市川輝夫先生(脳)から,西新井病院では安部裕之先生からの指導を受けました.

西新井病院での研修後,2004年には私は獨協医大においてスパインフェローとして国内留学に赴きました.初めて手術を行う際,それはスパインではなくSAH/A-comのクリッピングでした.当時の獨協医大では年間120件程度のクリッピングがありましたが,その大半は河本俊介准教授(現在 那須赤十字病院 副院長)が手がけていました.河本先生から「先生,やってみませんか?」と誘われ,私は平塚共済病院や西新井病院での経験を踏まえ,喜んで引き受けました.しかし,他流試合であり,既に2000件以上のクリッピング経験を持つ河本先生の手術の方針を正確に理解していませんでした.「先生がこれまで行ってきたとおりでいいですよ」との指示を受けました.瘤が前方向きであるため,通常のpterional approachを用い,横からinterhemispheic fissureを分け,問題なくクリッピングは終わりました.その後,河本先生は私に向かって,「一体誰に教わったのですか?」と尋ねてきました.私は戸惑いながらも,「市川輝夫先生と安部裕之先生です」と答えました.河本先生は微笑みながら,「先生を教えた人は相当に優れた方ですね」と述べられました.

彼曰く,多くのローテーターを見てきたが,形式的にはシルビウス裂を分けているように見えても,実際にはsubfrontalのビューに切り替え,rectal gyrusを切除して「間に合わせクリップ」で手術を完了させる人が多い,との話でした.

「若手で先生のように行う人は珍しい.素晴らしい師に恵まれましたね」との言葉に,私は喜びと同時に,市川先生と安部先生が実はworld-wideな技術を持っていたことに誇りを感じました.この経験を通じて,獨協医大に赴任していなければ気づかなかったであろう,市大医局,同門の実力に再び感銘を受けた瞬間でした.

「燈台下暗し」と言いますね.外部に目を向けがちですが,時には身近なものが見過ごされがちです.

「人間万事塞翁が馬」

2008年4月には,川原教授を敬意をもってお迎えいたしました.その当時,私は医局長としての経験を積む2年目にあたりました.医局長の職を終え,落ちついたひと時を迎えることができたなら,留学といった新たな可能性も心に寄せていました.

しかしながら,その年末に,川原先生は驚くべき決断を下されました.「私は医局を離れ,新しい医局を興す」とのお言葉でした.この決断により,医局員80余名がわずか14名となりました.私はその中で助教でありながら,実質的には2番手として,医局長の後を継ぎ,病棟医長の責務を担うこととなりました.

当然ながら,留学や研修の余裕は皆無でした.手術のスケジュールは,川原先生と私とで分担し,急患は私が一手に引き受けました.チーム制度が導入されましたが,ゴールデンウイークなどの連休も一日も休みがないこともありました.

川原先生は「私が病棟医長をしていたときは,家に帰らず寝袋で寝ていたよ」と熱く語られましたが,私はその言葉を耳に入れないようにして,その後の7年間,病棟医長の役割を果たしました.

当初の予想とは裏腹に,留学どころかアカデミックな活動も制約を受けましたが,コンパクトになった医局は停滞感を払拭するどころか,機動力が増し,入局者が増加し,時として10名以上の新しいメンバーを迎え入れることとなりました.多くの若手医師たちと共に,毎年200件以上の手術に携わる経験を重ね,その実績は今なお大いに生かされております.

始まりはわずか14人からであり,未知の再出発に不安を感じる瞬間もありましたが,「人間万事塞翁が馬」の教えが如実に現れた瞬間でもありました.

「棘の道」

川原先生は,自らに厳しくありながらも,その教育方針に厳格なものを築き上げました.職位が空席であっても,安易に昇格の道を設けず,4年以上にわたり,講師,准教授不在の時期を保ちました.この方針には他科からみると違和感があったかもしれませんが,それが彼の信じる教育理念の一環でした.

「ポストが空いたからといって安易に埋めることはしない.自分もそうだった.自分も成果が上がらなければ今年が最後と言われていた」との言葉は,ポストに名を連ねる者は,卓越した成果を上げることが求められることを示唆していました.そして,「スタッフ(講師以上)の要件は,臨床および学術で教室に貢献し,後輩を育成する能力があると判断したときだ」という厳格な基準によって,彼の指導の下で歩む者は,真に教育者としての資質を備えていることが期待されました.

2013年の秋,私は講師に任ぜられました.

川原先生からはこれまでの穏やかな日々とは一線を画す役割が待っていることを告げられました.「棘の道」とも表現されました.私は戸惑いましたが,その後は「棘の道」の教示とは裏腹に,穏やかな道を辿ることとなりました.

2016年5月,川原先生が急逝されました.衝撃と悲嘆と混沌が入り交じる中で,急遽,私は予想だにしなかった役回りを割り当てられることになります.当教室を代表して次の選考にでることになったのです.これは臨床においても研究においても安穏としていた私にとって,予期せぬ出来事であり,無防備な状況でした.しかし,この突如として現れた局面を先生は暗示していたのでしょうか.「棘の道」を少し垣間見ることができました.

2017年,新たな教授として山本哲哉先生が就任し,先生の言葉からは「棘の道」とは異なる側面が垣間見られました.選考においては,皆が適切な努力をしており,様々なノウハウがあることを知り,驚きました.この経験を通じて,「棘の道」は個々の感じ方がある一方,教職に従事することの厳しさを改めて感じました.

2021年4月,聖マリアンナ医科大学の募集の話を聞きました.全く期待感はありませんでしたが,何とか2次選考に進むことができました.プレゼンの際は,山本先生の丁寧なご指導をうけながら精緻に準備しました.

3次の選考を経て,2022年1月半ば,図らずも選出して頂きました.

顧みると,臨床,研究,教育のバランス,とくに私の臨床経験と臨床のマルチフィールドを評価していただいたように思います.

以前,医局が縮小・再編され,波乱に満ちた時期において培われた経験こそが,このような結果に至るうえで欠かせなかったと強く認識しております.まさに「塞翁が馬」の如く,厳しい状況から得た知恵と機智が,自身の現況に繋がっていると自覚しております.これには,多くの先輩方や後輩の先生からの温かいサポートがあったからでこそであり,そのご支援に心より感謝申し上げます.これを機に,改めて医局の仲間や同門の皆様に深く感謝の意を表明いたします.

私たちの世界は,しばしば未知の出来事が瞬時に巡り合わせるものです.

私も顧みるに,あまり拙速に損得を考えるよりも,堅実な実践を重ねることが至上の道と感じています.自らが享受した「なんかちょっといい医局」という環境を大切に受け入れ,その中で成長と学びを得ることが,真に価値ある営みであると信じています.

また,私自身も恩返しができるよう,聖マリアンナ医科大学と市大は連携を強化し,お互いが共に発展し,より進化した教室を切り拓いていけるよう,精進してまいります.

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