横浜労災病院 私的ことはじめ

藤野 英世(S48年卒)

30年以上前のことで,記憶がかなり曖昧で,思いこみも最近とみにひどく,強く印象に残っているところが強調されて,正確さはとても頼りないものです.

昭和59年 (1984) に横須賀共済病院脳神経外科に赴任しました.非常にやりがいがあり,同僚,先輩にも恵まれて,ひたすら手術に明け暮れる日々でした.

2年後,学生のクルズスで大学病院へ行った折,桑原教授から例の調子で,「おい,藤野さんよ,後で,ちょっと教授室へ寄ってくれ」,これがはじまりでした.

思えば,昭和50年,学会発表の時,教授自ら車を運転して,横浜の病院から東京の会場まで連れて行ってくれた道中で「おい,藤野さんよ,アレが東京タワーだよ」

教授室に寄ると,新しい病院を作るが設計図を見て,いろいろアドバイスをしてくれ,とのことでした.設計図は一番初期のもので,現在建っている横浜労災病院とはかなり違うものでした.その後数ヶ月毎に呼びだされ,変更した設計図に対して意見を求められました.手術室を一般よりも,思いっきり広くすること(これは実現)をふくめて種々にわたり,意見を伝えました(かなりの部分は却下).

最終的に現在に近い設計図になっており,その際,少し詳しい状況をおしえてくれました.整形外科中心の従来の労災病院ではなく,脳神経,心臓血管を中心にして,最先端かつ高機能の医療を提供し,病院業務,運営,管理,サービスも含めた斬新かつ画期的な病院.新横浜の道路脇の湿地帯を埋め立てる.労働福祉事業団を主とし,横浜市の要望,協力で,計画が進められる.膨大な予算が推定されます.

さらに数ヶ月後,新病院準備担当者同士の顔合わせ,打合わせがあるので,横浜労災病院の脳神経外科部長として一緒に来て欲しいと,ここで初めて桑原教授から指名されました.それから月に数回東京まで行って,遅くまでの打合せ.

最先端で高機能の医療に関しては,ガンマナイフを勧めました.最初,本部では乗り気ではなく,反対意見もあったと漏れ聞いています.理事を含めた会合でガンマナイフがいかに先端的高機能医療になりうるか,力説しました.その後の二次会でも理事に直接膝詰めで説得しました.しかし,もはや予算はない.当初の計画を遙かに超した予算で,いろいろな箇所で削るしかない.ガンマナイフは夢でしかない.新病院としては,なにか目玉が欲しかったのでしょう,結局上層部が苦労折衝を重ね,横浜市の援助(つまるところ法律上,借金となり返済必要と後で桑原先生から聞きました)を受けガンマナイフの導入が決まりました.

新しい病院として,当時殆どなかったオーダリングシステムを構築する.処方,諸検査,放射線,予約などを,診察室コンピュータからの発生源オーダです.今ではどこでも普通のことですが,30年以上前は,一からソフトをつくりあげる必要があります.その担当を命ぜられました.これがきわめて難関であります.何といっても,自尊心の強い,融通のきかないあの医師ども,をなだめすかし,持ち上げ,最後にはおどしてシステムの基礎をつくる.一方,ソフト会社がプログラムを組むのですが,遅々として進まない.医学用語すらしっかりしたものはなく,小生の使っていた用語集を提出.ソフトができても使いにくいうえ,何と言っても遅い.診療科によって条件が色々違う.統一できない箇所も多い.その都度SEに提示する.SEはみんな泊まり込みで,顔色極めて悪く,これぞ労災.それでも追いつきません.できたものは,試してみますが納得できる代物ではなく,提案したバーコードの導入も見送られました.

開院までの数ヶ月は,間に合わない いやいや きっと間に合う たぶん,無限地獄.

1991年6月に開院しました.

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